アユタヤ王国のギリシャ人外交顧問:バーン・ウィチャエーン
- somutamu

- 7月29日
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17世紀のアユタヤ王国は貿易により大きく栄えていた時代であったことからギリシャ人のコンスタンティン・フォールコンがアユタヤ王国外交顧問として活躍しました。

ナーラーイ王(1656年ー1688年)の治世に副都として築かれたロッブリーには現在でもコンスタンティン・フォールコンの館跡「バーン・ウィチャエーン」が残されています。

地図
ロッブリー駅から徒歩12分
開園時間:朝8時30分から夕方4時30分まで
入場料:タイ人30バーツ 外国人80バーツ
コンスタンティン・フォールコン
ギリシャのケファロニア島にて1650年に生まれたコンスタンティノス・ゲラキスは13歳で船乗りとしてイギリス渡り名前をイギリス風のフォールコンとしました。
フォールコンはイギリス海へ入隊するなどロンドンで過ごした後に1669年に貨物船の砲手としてインドネシアに渡航しイギリス東インド会社で働き始めました。

ナーラーイ王の治世のアユタヤ王国は貿易に繁栄していましたが、それに伴い中国人商人とオランダ東インド会社の衝突などがあり、外国人の専門家を必要としていた時期でした。

タイへ渡ったコンスタンティン・フォールコン
フォールコンはギリシャ語、英語、フランス語、ポルトガル語、マレー語と語学堪能であることから1675年にフォールコンはタイのアユタヤにあるイギリス貿易商の元で働き始めました。
アユタヤに来たフォールコンはすぐにタイ語を習得したことでイギリス人貿易商は円滑な貿易を行うため、1681年にアユタヤ王室にフォールコンを紹介しました。

こうして通訳としてナーラーイ王に働き始めたフォールコンですが、語学以外でも財務に精通していたことからアユタヤ王室の財務管理部で働くようになりました。

ナーラーイ王から官位を授かる
またフォールコンはヨーロッパの知識を活用し副都ロッブリーの開発に協力しするなどし、外交面では都のアユタヤにフランスの東インド会社が置かれるなどアユタヤ王国の貿易の繁栄に努めました。
このような活躍がナーラーイ王に認められ1683年にフォールコンはアユタヤ王国からの官位を授かりました。

反外国人勢力の反感の末に
アユタヤ王国とフランスとの結びつきを強くしたフォールコンですが、その陰にはフランスの外交官からの多額の賄賂を受け取っていました。
そして城塞都市である都アユタヤへ王の許可なくフランスの軍隊の連れ込む行いや、ナーラーイ王へキリスト教へ改宗を勧めるなど度を越した振る舞いが目立つようになりました。

このころになると王宮内でも外国人勢力の拡大に懸念する勢力も増え、フォールコンの度を越した振る舞いはこのような勢力の反感を買いました。
1688年、ナーラーイ王が危篤になったことから戦象部隊隊長ペートラーチャーなどの反外国人勢力のクーデター成功によりフォールコンは処刑されてしまいました。

クーデターの後にアユタヤ王国31代に即位したペートラーチャー王(在位1688年ー1703年)は反外国勢力の方針をとり多くの外国人を国外追放にしました。
現在、フォールコンの館であった「バーン・ウィチャエーン」が朽ちた姿でその時代を物語っています。




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