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ナーラーイ王を支えた将軍:ワット ナコーン コーサー

  • 執筆者の写真: somutamu
    somutamu
  • 8月2日
  • 読了時間: 2分

ロッブリー駅の側にナーラーイ王を支えた将軍チャオプラヤー・コーサーレック(1632年ー1683年)の名を冠した寺院跡「ワット ナコーン コーサー」があります。


この「ワット ナコーン コーサー」は以前から建てられていた古いお寺をナーラーイ王がロッブリーを副都として開発した際に修復されたと推測されています。

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地図

ロッブリー駅から徒歩13分



ナーラーイ王の乳母兄弟として

ナーラーイの乳母の息子であったコーサーレックは乳母兄弟としてナーラーイと共に育ちました。


その後、王位後継者争いに有力貴族の支援の少ないナーラーイですが、コーサーレックと弟のコーサーパーンに助けられ1656年にアユタヤ王国30代に即位します。

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アユタヤ王国の躍進に活躍するコーサーレック

王位後継者争いの功績にコーサーレックは軍の総司令官の任につき、チェンマイ遠征での大勝利や1664年のビルマ王国の都プーカム包囲戦など野戦将軍として活躍しました。

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その後、貿易大臣に転じたコーサーレックは貿易の円滑化を図るためにギリシャ人のコンスタンティン・フォールコンを雇いました。


このフォールコン、英語やフランス語、タイ語など語学に通じていたことからコーサーレックは1681年にナーラーイ王に紹介します。

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ナーラーイ王と不和となる

フォールコンは当初、通訳のみを行っていましたが会計や外交に手腕を発揮したことからナーラーイ王は重用し官位まで与えました。


しかし、1683年フォールコンが提案したヨーロッパ様式の要塞建設をめぐりコーサーレックとナーラーイ王の意見が衝突してしまいました。

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大いに嘆くナーラーイ王

後にナーラーイ王はコーサーレックが要塞建設の反対した理由が建設に反対派の貴族達から賄賂を受けていたことを知ります。


そのことで怒ったナーラーイ王は手にした鞭で激しくコーサーレックを打ち据えますが、一ヶ月後にその傷が化膿したことによりコーサーレックは亡くなります。


コーサーレックの死後、ナーラーイ王は自身を王位に就けるため、その後の野戦将軍として王国を支えた忠心の死を生涯嘆きました。

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現在「ワット ナコーン コーサー」にはかつてそびえ立っていた仏塔が崩れ瓦礫の山のようなっています。

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この大きな仏塔跡からもコーサーレックがナーラーイ王から大きな信頼を得ていたことが窺い知ることができます。

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