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ロッブリーとナーラーイ王:ワット プラ シー ラタナ マハータート

  • 執筆者の写真: somutamu
    somutamu
  • 7月25日
  • 読了時間: 4分

タイの中部にあるロッブリーは9世紀ごろにカンボジアのクメール帝国の領土であったことからいくつかトウモロコシのような形をしたクメール様式の建物を目にします。

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その中でも12世紀ごろに建てられたとする「ワット プラ シー ラタナ マハータート」は17世紀のナーラーイ王の治世に何度も修復をされた記録があります。

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しかし、ナーラーイ王の治世が終わると共に「ワット プラ シー ラタナ マハータート」は廃墟となりました。

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地図

ロッブリー駅より徒歩1分


開園時間:朝8時30分より夕方4時30分まで


(時間変更があります)


入場料:タイ人30バーツ 外国人80バーツ


アユタヤ王国30代ナラーイ王

1656年にアユタヤ王国28代としてサンペット6世が即位しますが、王位継承で対立した叔父のシースタンマラーチャーと異母弟のナーラーイと共に暗殺されます。


暗殺に成功したシースタンマラーチャーはサンペット7世として同年にアユタヤ王国29代に即位しますが、その直後にサンペット6世暗殺を共謀したナーラーイと対立します。

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そして同年10月にナーラーイはサンペット7世を暗殺しアユタヤ王国30代に即位しました。

ナーラーイ王/ナラーイ国立博物館
ナーラーイ王/ナラーイ国立博物館

ビルマとの戦い

アユタヤ王国の歴史は常に隣国ビルマとの戦いの歴史であり1663年、タイへ逃れたビルマのモン族の帰化を認めたことが原因で両国は戦争となりました。


両軍はタイ東部カンチャナブリにて激突し、この戦いに勝利したナラーイ王は1664年にビルマの都のパガンを包囲の後、食糧不足となったためアユタヤに撤退しました。

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貿易により繁栄するアユタヤ王国

アユタヤ王国はナーラーイ王の治世の以前から中国、オランダ、ポルトガルなどの国々との貿易を行っていました。


ナーラーイ王は積極的に貿易政策を進め、以前から貿易を行っていた国に加え中東、イギリス、フランスなどの国々と貿易を拡大したことによりアユタヤ王国に莫大な富と繁栄をもたらしました。

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その後に拡大する貿易や外交の専門家としてナーラーイ王はギリシャ人のコンスタンティノス・フォールコンに外交顧問としての役職と官位を与えました。


また、タイ人の外交官コーサパーンをフランスに派遣するなどし、フランスとの関係を強めたことで多くのフランス人宣教師など多くのフランス人がタイに移住し、バンコクにはフランス人による砦の建設も行われました。

ルイ14世に謁見するコーサ―パーン/ナーラーイ国立博物館
ルイ14世に謁見するコーサ―パーン/ナーラーイ国立博物館

副都として開発されるロッブリー

1664年、アユタヤにある中国商人とオランダ商人による貿易の利害が衝突し、オランダ東インド会社の軍船がアユタヤの玄関口というべきチャオプラヤー河口の海上封鎖を行う事件が起きました。


この事件に危機感を感じたナーラーイ王は1666年、都のアユタヤから約40キロ北にあるロッブリーを副都として開発し離宮を建設しました。

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そして新しく建てられたロッブリーの離宮にて各国の使節団への謁見やフランスのルイ14世からの親書が受け取れました。

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そのルイ14世からの親書を受け取った離宮の跡地は現在「ナーラーイ国立博物館」として使用されています。

ナラーイ国立博物館
ナラーイ国立博物館

こうしてロッブリーは副都して開発されたことにより以前からあった「ワット プラ シー ラタナ マハータート」など数多くの古い寺院の修復が行われました。

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その後のロッブリー

貿易による利益はアユタヤ王国に莫大な富と繁栄をもたらしましたが、これに伴う外国人増加がアユタヤ国内でのキリスト教と外国人勢力、親外国派のタイ人官僚の影響力が強くなりました。


このような外国人勢力や親外国派のタイ人官僚の影響力の懸念から王宮内で反外国勢力派が結成されました。

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1688年、昏睡状態になったナーラーイ王を見た反外国勢力派で戦象部隊の隊長ペートラーチャーがクーデターを起こしナーラーイ王の二人の王子を処刑、王宮の権力を完全に掌握します。


権力を掌握したペートラーチャーはナーラーイ王の娘を娶り同年にアユタヤ王国31代に即位しました。

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王位に就いたペートラーチャー王は外国人勢力や親外国派のタイ人官僚排除ため鎖国政策を行い多くの外国人を国外追放にしました。


またナーラーイ王の治世には親密な貿易関係であったフランスに対してもペートラーチャー王はバンコクの砦を立て籠もったフランス人を包囲後に国外追放しました。

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こうしてペートラーチャー王の治世にロッブリーは副都としての役割を終え、街中に残された遺跡がナーラーイ王の治世を物語っています。

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