ワット アルンは三島由紀夫の小説「暁の寺」で知られたタイの三大寺院の一つでタイ王室が管理するお寺でもあります。
ワット アルンの名前はヒンドゥー教の神アルナに由来します。
そして ワットアルンの表面に施された装飾が朝の光を真珠のような虹色に反射させます。
地図
拝観時間:朝8時から夜6時まで
拝観料:100バーツ
(拝観料や拝観時間に変更があります)
ワット アルンの歴史
ワット アルンはアユタヤ時代に建築されたとされ、ナライ王(1656-88)の治世にフランスの地図に示されていました。
アユタヤ時代に建てられたころ寺院はバンマコックの村にちなんでワット マコックとよばれていました。
アユタヤ王朝の崩壊後、ビルマ軍を駆逐したタクシン王は1767年にワット アルンのあるトンブリに到着したタークシン王(1734年4月17日ー1782年4月6日)は夜明けにこの寺院の前に通過しました。
そして、このお寺の改修を誓いワット チェンとしました。
寺院にはタークシン王の治世中、王宮が敷地内にありました。
寺院は1785年にラーマー1世により対岸にあるワット プラケオに移される以前はエメラルド仏像を祀っていました。
タークシン王とは
1765年ー1767年のビルマ軍の戦いに敗れたアユタヤ軍は、1767年4月にアユタヤが陥落しアユタヤ王朝は滅亡しました。
しかし、タークシンはタイ東部チャンタブリーに軍を集結させビルマ軍の隙をつき1767年11月にアユタヤを奪還しました。
そして、1768年に旧アユタヤ領を平定後にタークシンは王位につきワット アルンのあるトンブリに王朝を開きました。
しかしタークシン王は中国系であり、アユタヤ王朝の王家の血統ではないことに強いコンプレックスを抱いており、次第に精神を病むようになりました。
そのため、各地で反乱が起き、民心も離れていきました。
この時、民衆の支持があったマハー・カサットスック公爵(後のラーマ1世)がカンボジア遠征から戻り、1782年4月6日、タークシン王はマハーカサット・スック侯爵によって処刑されました。
その後、ラーマ1世は対岸のバンコクに遷都しチャックリー王朝を開きました。
このような悲劇のタクシン王ですが、ビルマ軍を追い払い国土を回復させたことから現在でもタイ人に尊敬されています。
こちらがラーマー2世によって建てられたとされている本堂に安置されています仏像で仏像の下にはラーマ2世の遺灰が収められています。
この仏像の上にもタイでは権威を表す9層の傘があります。
この仏塔がワット アルンで一番の特徴的な大仏塔に圧巻されます。
この仏塔の高さは75mあり大塔を中心に4つの小塔が取り囲み、仏教の須弥山を表しており仏塔の上にはヒンドゥー教の神インドラの4つの彫像があります。
仏塔の計画はラーマ2世の治世に始まり9年間の期間をかけてラーマ3世の治世の1851年に完成しました。
そして復元が終了したときラーマ4世によりは新しい寺院は「ワットアルンラーチャワララム」、通称ワット アルンとなりました。
仏塔の表面は陶器の破片で飾られており基壇の部分にラーマキエン物語に登場するヤックやガルーダ、ハヌマーンで飾られています。
2013年から2017年にかけて修復作業が行われました。
夜間にもワットワルンはライトアップされその美しさで多くの観光客に人気があります。
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