スコータイ王国の成立:シーイントラーティット王
- somutamu

- 5 日前
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スコータイにはタイ族により1240年頃に成立したスコータイ王国初代「シーイントラーティット王記念碑」の像が祀られています。

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スコータイ王国の成立
元々タイ族は中国の雲南省に住んでいましたが、11世紀頃に南下を始めインドシナ半島の各地に定住するようになりました。
そのころ11世紀インドシナ半島ではカンボジアのクメール帝国が最盛期を迎えており、アンコールワットに代表される巨大な建築物と広大な領土を支配していました。

そのようなインドシナ半島に南下したタイ族のグループの一つがスコータイに定住し、やがてクメール帝国の支配下で小領主として頭角を現すタイ族が現れました。

そのインドシナ半島の大半を支配していたクメール帝国ですが、1220年にジャヤーヴァルマン7世が死去するとその影響力にも陰りが見え始めました。

このクメール帝国の影響力の低下によりスコータイではタイ族による国を持つ機運が高まりました。
このとき現在のピサヌロークの小領主ポークン・バーンクラーンハーオはペッチャブーンの小領主ポークン・パームアンと共にクメール帝国への徴税を拒否し、ついにはクメール人の追放に成功しました。

こうして、バーンクラーンハーオは1220年にシーイントラーティットと名前を改め王位に即位し、パームアンは摂取の地位に就いたことでスコータイ王国が建国されました。
そして人々から勇気と技量を称えられたシーイントラーティット王を栄光ある王(プラ・ルアン)と呼んだことから、スコータイ王朝はプラルアン王朝とも呼ばれています。

しかし、スコータイ王国が建国したとはいえ、まだまだ小国のためロッブリーを都とするラヴォ王国の属国となっていたまま1238年にシーイントラーティット王は死去しました。
その後を継いだバーンムアン王(在位1238年ー1279年)の治世、1239年にスコータイ王国はラヴォ王国から完全に独立を果たしました。

こうしてタイ族により建てられたスコータイ王国では仏教思想や独自の文化、タイ文字が生まれ、現在でも続くタイ人のアイデンティティが確立するのでありました。




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