スコータイ王国の繁栄とラームカムヘーン王
- somutamu

- 1月12日
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スコータイ歴史公園に祀られているスコータイ王国3代ラームカムヘーン王(在位1279年ー1299年)の治世に大いなる繁栄を遂げたことで、現在でもタイ人に尊敬され続けています。

地図
タイ仏教思想が確立する
1240年にタイ族の国として独立したスコータイ王国ですが、まだまだ小国ゆえにカンボジアのクメール帝国から絶え間ない脅威にさらされ続けていました。

そのような状況で1260年頃にタークの領有権をめぐる戦いでスコータイ王国2代バーンムアンの弟が出陣しました。
出陣した弟は戦象を巧みに操り、クメール帝国の貴族を打ち取りとったことで勝利を決定づけたことから「勇敢なるラーマ」を意味するラームカムヘーンと呼ばれました。

そのような武勇に優れたラームカムヘーンですが、1279年にスコータイ王国第3代に即位するとタイ仏教である上座部仏教้の保護政策を行いました。

これによりスコータイ王国は武力ではなく仏教を用いた外交や文化、政治手法でその領土を広げたことで大きな繁栄をしました。
そのようなこともありラームカムヘーンの仏教思想は現在でもタイの社会に影響を与え続けています。

ラームカムヘーン大王碑文
1833年、出家中であった即位前のラーマ4世が現在のスコータイ歴史公園の場所でラームカムヘーン大王碑文を発見しました。
ラーマ4世は27年の長い出家期間があり、仏教経典の言語のサンスクリット語とパーリ語に精通していたことから自身で碑文を解読したことで、スコータイ王国の歴史研究が進みました。

この歴史的な発見の碑文ですが、1986年頃に碑文はラーマ4世による捏造との疑惑を持つ一部の学者がいました。
しかし、その後の歴史専門家や言語学者、考古学者からの研究において碑文が本物であると断定され、2003年に碑文はユネスコ記憶遺産に登録されています。

碑文によるとスコータイ王国には豊穣な大地があり商人には税が課せられず、王に願いがある者は王宮の前にある鐘を鳴らし、ラームカムヘーン王自身が公平な裁きを行っていたと記されています。

また王室が管理するプーケットの錫鉱山から軍隊の予算が賄われ、出身を問わず重要な地位に就くことができ、中国からは陶工などが呼び寄せられました。

ラームカムヘーンの外交政策
日本でも鎌倉時代に元寇として九州の博多湾に押し寄せた元王朝のモンゴル帝国ですが、東南アジアにおいてもビルマに侵攻したモンゴル帝国によりパガン王朝が滅亡しました。
この危機に対処すべくラームカムヘーンはタイ北部ランナー王国のマンラーイ王や

同じくタイ北部パヤオ王国のガムムアン王と三国同盟を結び北方の安全を確保する一方、元王朝には使節団を派遣し中国人の陶工を連れ帰るなどの外交を行っていました。

そのころビルマのモン族のワーレルーという商人がラームカムヘーンに仕えました。

ワーレルーは象使いとしての働きがラームカムヘーンに認められて近衛隊長に出世しましたが、ラームカムヘーンの娘と駆け落ちをしてしまいました。
その後、ワーレルーは駆け落ち先のビルマにて小領主となり、ラームカムヘーンに許しを請いました。

ラームカムヘーンはワーレルーを許し援助を行ったことから1287年にビルマにてペグー王朝が成立し、スコータイ王国に臣従を誓ったことから西方の安全が確保されました。

ラームカムヘーンの優れた外交手腕で多くの領主との同盟を結んだスコータイ王国は富み、人々が安心して生活を送れるようになったことで仏教美術などの文化が発展します。

スコータイ王国の凋落
ラームカムヘーン亡き後、スコータイ王国はプーサイソンクラームが摂政を務めた後に1298年に即位した4代ルータイ王(在位1323年ー1341年)の治世になりました。

しかし、ルータイ王はタイ北部のモン族へ派兵に失敗、これによりスコータイ王国の権威が落ちたことから各地の領主は離反をしたことでスコータイ王国は衰退してしまいました。




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