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ラーマ1世王妃の名を冠したお寺:ワット アマリンタラーラーム ウォラウィハーン

  • 執筆者の写真: somutamu
    somutamu
  • 3 日前
  • 読了時間: 3分

バンコクにあるお寺「ワット アマリンタラーラーム ウォラウィハーン」はアユタヤ王国時代の1657-58年頃に建てられ、18世紀にバンコクに都を定めたトンブリ王朝のタークシン王(在位1767年ー1782年)の治世に王室管理寺院に昇格しました。


その後チャクリー王朝のラーマ1世(在位1782年ー1809年)により大規模な改修がなされ、ラーマ1世の妃、アマリンドララム王妃の名前に因んで「ワット アマリンタラーラーム ウォラウィハーン」と命名されました。


こうして改修されたワット アマリンタラーラーム ウォラウィハーン」ですが、第2時世界大戦において連合軍の爆撃により甚大な被害を受けたにもかかわらず、本堂だけは奇跡的に被害を免れ現在に至っています。


地図

トンブリレイルウェイ駅桟橋より徒歩7分


境内の様子

本堂は閉まっているため横にあるお堂にてお参りをします。


タイではお皿の形をしたロウソクを水に浮かべる習慣があります。


アマリンドララム王妃

アマリンドララム王妃は1737年にアユタヤ王族の娘として生まれ、1760年頃にアユタヤ貴族のチャクリー卿(後のラーマ1世)に嫁しました。


しかし幸せな結婚生活もつかの間、1767年にビルマ軍によりアユタヤ王国は滅亡しアマリンドララム王妃は深い森へ避難を余儀なくされその間に4人の子供を出産しました。


1767年にビルマ軍を撃退したタークシン王は都をバンコクに定め、その後アマリンドララム王妃も避難先からビルマ軍の脅威がなくなったバンコクに移住しました。


その頃、タークシン王はアユタヤ王国の旧領を取り戻すべく各地に軍を派遣しており、1779年に夫のチャクリー卿がラオス遠征軍の司令官として戦場に赴きました。


夫と不和になる

ラオス遠征は成功しチャクリー卿はエメラルド仏など多くの戦利品と共にバンコクに凱旋しチャクリー卿はラオスのヴィエンチャン王国の娘、カムウェン妃を側室としました。


バンコクに連れてこられたカムウェン妃は側室といえども人質のような存在でしたが、後に王室の子女に教育を施すなど教養がある女性で、


またチャクリー卿がある街の破壊の命令に対しカムウェン妃が大反対をし、ついには命令を撤回させ街を守るなど自分の意見をしっかりと言える人物でした。


そのようなこともありチャクリー卿の側には常にカムウェン妃の姿がありました。


当時のアジア諸国の王侯貴族には政略結婚のなどの理由で側室を持つ習慣があり、そのような家柄に生まれたアマリンドララム王妃も当然のことながら承知していたでしょう


しかし、アユタヤ王国滅亡時にビルマ兵に追われる日々、


そして不自由な避難先での出産など辛酸な苦労を重ねてきたアマリンドララム王妃には夫の行為が許せなかったのかもしれません


棍棒にてカムウェン妃を殴りつけてしまいました


血まみれになったカムウェン妃を見たチャックリー卿は激怒し、剣を抜きアマリンドララム王妃のいる部屋に向かいました。


このとき屋敷にいた息子のチム(後のラーマ2世)もこの騒ぎを聞きつけました


息子のチムは母を救うべく父の手の及ばないタークシン王の側室として嫁いだ姉のいる屋敷にアマリンドララム王妃を逃がしました。


息子のチムの機転によりアマリンドララム王妃は無事に逃げることができましたが、このことが原因となりチャクリー卿とアマリンドララム王妃は生涯会うことはありませんでした。


晩年のアマリンドララム王妃

その後アマリンドララム王妃は娘の屋敷で暮らしました。


1782年にチャックリー卿がラーマ1世として王位に就き、1809年に息子のチムがラーマ2世として王位を継承したことからアマリンドララム王妃は王宮に移りました。


そしてアマリンドララム王妃は1824年に孫のラーマ3世の即位を見届け、1826年に89歳の生涯を終えました。

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