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執筆者の写真somutamu

敵中突破せよ:ワット ピチャイソンクラーム アユタヤ

更新日:2023年11月5日

アユタヤにある「ワット ピチャイソンクラーム」はタイの歴史の中で重要な転換点となった古いお寺です。


地図

ワット ピチャイソンクラームの歴史

「ワット ピチャイソンクラーム」は1357年頃に建てられ当初はワット ピチャイとよばれていました。


1765年、アユタヤ王国はビルマとの戦争が始まり、各地で敗北を続けたアユタヤ軍はついに都のアユタヤがビルマ軍により包囲されました。


その包囲の中、外壁にあるワット ピチャイにて武将タークシンがビルマ軍へ激しい抵抗を行っていました。


敵中突破せよ

1766年1月、ビルマ軍の包囲を破るためワット ピチャイから出撃した武将タークシンですがアユタヤ軍は大敗しました。


大敗を喫したアユタヤ軍ですが、武将タークシンはビルマ軍の分厚い包囲を突破に成功しタイ東部のチャンタブリーに落ち延びました。


アユタヤ王国滅亡

野戦では勝利したビルマ軍ですが、アユタヤの街は分厚く囲まれた城壁で防備が硬いために攻めあぐねていました。


そのためビルマ軍は城壁の下にトンネルを掘る作戦を行い、1767年4月にトンネルを使い城壁の破壊に成功し突入したビルマ軍により都アユタヤは破壊尽くされました。

そしてアユタヤの都を陥落したビルマ軍は多くの住民を捕虜として連れ去りました。


またアユタヤ王国35代スリヤ―ト アマリン王(在位1758年ー1767年)も都が陥落したとき単独で逃亡しましたがビルマ軍に捕まりました。

捕まったスリヤ―ト アマリン王はビルマ軍への抵抗の意志を見せるため10日間の絶食の後に亡くなり426年続いたアユタヤ王国は滅亡しました。


アユタヤを奪回せよ

一方、武将タークシンはチャンタブリーを拠点に新たに軍の編成を行い、手薄になったビルマ軍の隙をつき1767年11月にアユタヤを奪還に成功しました。


その後、アユタヤの旧領の取り戻したタークシンは王位に就き1768年にバンコクの東にトンブリ王朝を開きました。


(その後のタークシン王につきましてはこちらをどうぞ)

記事:救国の英雄が眠る寺院:ワット インタラーム


その後のワット ピチャイソンクラーム

その後、19世紀の中頃に現在のチャクリー王朝のラーマ4世、ラーマ5世の治世に村人により荒廃したワット ピチャイの修復が行われました。

そしてビルマからの独立回復に成功した兵士を称えるためお寺の名称を「ワット ピチャイソンクラーム」(ソンクラームとはタイ語で戦争の意味)としました。


そのような理由から「ワット ピチャイソンクラーム」は縁起がよいとして多くの参拝客が訪れています。

歴史にもしはありませんが、武将タークシンが敵中突破に失敗したら、今頃タイはどうなっていたのでしょう。

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