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アユタヤ王国の外交官が建てたお寺:ワット シー スダーラーム ウォラウィハーン

  • 執筆者の写真: somutamu
    somutamu
  • 8月10日
  • 読了時間: 3分

バンコクにある「ワット シー スダーラーム ウォラウィハーン」はアユタヤ王国の外交官「チャオプラヤー・コーサーパーン」からの多額の資金を元に1689年に建てられたお寺です。

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地図

地下鉄バンクンノイ駅から徒歩8分


拝観時間:朝6時から夜7時まで


(時間変更があります)


ワット シー スダーラーム ウォラウィハーンの歴史

建設当初、このお寺はと白衣の修行僧のお寺を意味する「ワットチパカーオ」と呼ばれていました。

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その後、ラーマ1世(在位1782年ー1809年)の治世に王族により改修されました。

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またラーマ2世と3世の治世で多くの文学を執筆したタイの大詩人「スントーン・プー(1786年ー1855年)」も幼少期にこのお寺で学んだ記録があります。

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しかし、お寺は運河沿いに位置することから洪水の被害を受けラーマ4世(1851年ー1868年)の治世に修復工事が行われました。

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こうして1867年に修復工事が完了しお寺は現在の「ワット シー スダーラーム ウォラウィハーン」と命名されました。

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境内の様子

境内には観音像など中国の神様も祀られており

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ギョロ目の狛犬がおり

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金色に輝く大仏が祀られています。

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外交官チャオプラヤー・コーサーパーン

1633年に生まれたコーサーパーンは母が後にアユタヤ国王となるナーラーイの乳母を務めてこともあり、ナーラーイとは兄のコーサーレックと共に幼少期を過ごし、後にナーラーイが王位に就くために活躍します。

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ナーラーイ王の治世、アユタヤ王国は中国やアラブ諸国、ヨーロッパ諸国などの国々との貿易で繁栄しており、そのような時代にコーサーパーンは外交官として外交手腕を発揮します。

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外交使節としてフランスへ

1673年、ナーラーイ王はルイ14世から親書を受け取るなど両国な親密な外交関係になったことから多くのフランス人宣教師や貿易商人がアユタヤに定住しました。

ルイ14世の親書を受け取るナーラーイ王/ロッブリー ナーラーイ国立博物館
ルイ14世の親書を受け取るナーラーイ王/ロッブリー ナーラーイ国立博物館

このようなことからナーラーイ王はルイ14世に返礼の使者を送りましたが、船が難破したため失敗、1684年に外交官コーサーパーンを使節団長としてフランスに出発させました。

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栄光と没落

こうして海を渡ったコーサーパーンの使節団はベルサイユにてルイ14世に謁見し、3年後の1687年にアユタヤに帰国しました。

ルイ14世に謁見するコーサ―パーン/ナーラーイ国立博物館
ルイ14世に謁見するコーサ―パーン/ナーラーイ国立博物館

こうして使節団長の大任を果たし帰国したコーサーパーンですが、このころアユタヤ王宮内部ではギリシャ人で外交顧問のコンスタンティン・フォールコンなどの外国人勢力に対する反感が高まっていた時期でした。

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このような状況で1688年にナーラーイ王が意識不明のなったのを見たコーサーパーンは反外国人勢力で戦象部隊隊長ペートラーチャーにクーデターを起こさせフォールコンを処刑しました。

ロッブリーのフォールコン邸宅跡
ロッブリーのフォールコン邸宅跡

こうしてペートラーチャーはアユタヤ王国は31代の王位に即位し、コーサーパーンは財務大臣に就任します。

コーサーパーン/ロッブリーナーラーイ国立博物館
コーサーパーン/ロッブリーナーラーイ国立博物館

しかし、王家の血を引かず元々戦象部隊隊長でナーラーイ王の娘を娶ったことで王位に就いたペートラーチャーとチャオプラヤーの称号を持つ貴族のコーサーパーンの関係はうまくいくはずもありません。


また、コーサーパーンは先代のナーラーイ王を深く敬愛しペートラーチャー王の鎖国政策にもかかわらずフランスとの親密な関係がありました。

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こうしたことから1699年にコーサーパーンとその一族は罪を被せられ財産没収となり、

同年コーサーパーンは亡くなりますが、その最後は自死したともいわれています。

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